脳内整理ノオト

脳内を書き出せるか日々確認していきます。

#5 なぜか嫌いだったチェンソーマンを今何度も見てる

変に信者が持ち上げてる映画とかアニメとか漫画が苦手だ。この良さがわからないのは作者の本当の言いたいことがわかってないからで~みたいにご高説垂れ流されちゃうやつ。いやもしかしたら作者も、そのご高説をみて何言ってんだこいつみたいに思ってるかもしれないじゃないかって思ってしまう。

世の中にそういう作品っていっぱいあるような気がするけど、例えば呪術廻戦とかなんだけど、それは作者がそういうのを嫌って、自分は絶対世間が思うような展開や考察通りには描かないぞっていう強い意志を感じられてスカッとしたくらいだ。

漫画で言えば、藤本タツキ先生が描いた作品なんかもそうだ。藤本タツキ先生がどうだっていうより、周りで騒いでいるタツキ先生の作品はすべて最高!わからないやつが悪い!みたいな信者が苦手だ。最初に出会ったのはTwitterか何かで回ってきた「ファイアパンチ」だったと思うが、確かに面白いが、そんな絶賛されるものなのか…?という疑問符がわいて、いったん棚に上げた。その後「チェンソーマン」が話題になったのでとりあえず単行本を買ってきて揃えたが、最後まで読めなかった。この作品は話題であり面白いんだ…というハードルを上げていたのもあったが、作者の言いたいことがわからなかったし、とにかく暗いだけで、得るものがなかったので読むのが苦痛になってしまったのだ。

少年ジャンプ作品といえば、昭和生まれの私は「努力、友情、勝利」の3原則を守った作品をずっと見てきたから、例えばドラゴンボールスラムダンクダイの大冒険などなど、王道でない作品が主流になりつつあるこの時代についていけないのかもしれない…という結論に落ち着いてしまった。挫折があり、成長があり、勝利がある。それでこそ胸がすくというものじゃないか、というのはもう古い考え方なのかもしれないという諦めに至った。

しかしあるとき、チェンソーマンがアニメになるというので、もう一度最初から読み直してみようか…という気持ちになり、押し入れにしまい込んだ11巻を出してきて読むことにした。するとどうだろうか。夢中になって最初から最後まで読んでしまった。そうか、これは確かに、王道の主人公の成長物語じゃないか!と不思議と思えてしまったのだ。

アニメでもドラマでも漫画でも、私は2つのパターンがあると思っている。ストーリーのためにキャラクターが動かされるタイプと、キャラクターのためにストーリーが動かされるタイプだ。私は前者のほうが好きだ。作者の言いたいことが最初から最後まで一貫されているから、疑問がなく見ていられる。後者はあれ?このキャラ最初はそんな感じだったかな…?みたいに考えてしまうことがあって苦手だ。キャラにパワーがあれば、そんなのどうでもいいという人もいるだろうが、私はそこにとらわれてしまうので苦手である。

ではチェンソーマンはどうか?私にとっては前者だった。最初に読んだときは後者のように感じだのだけれど、11巻通して読んでみたら、デンジはデンジだったし、でもそれでいて、ちゃんと成長していたのだ。成長といっても、獣が人間になったというようなことであり、デンジが、自分が人間であることを自覚したということであったと思っている。

この物語の全てはマキマさんの手の内で進んでいるように見えて、マキマさんがデンジに心を与えてしまったことが、彼女の敗因になっているところが好きである。何も持っていなかったデンジに、食事、住まい、生活、家族、恋愛、友人を初めてマキマさんが与え、彼を犬のように支配していく。そしてその犬がそれらの大切さに気が付いたところですべてを奪うことでデンジを完全に支配する計画だった。しかし犬は人間になっていた。大切な人が死んでも泣けないし、自分の感情もうまく表現できないような犬のようだったけど、自分はもっといいものが食べたいし、もてたいし、与えられた物以上の欲望があることに「気が付けた」のだった。それは支配からの解放だったし、でも、デンジの成長なんて、大いなる犠牲の上にしたものにしては、あまりにも小さいものだった。だからつらい。たくさんの人が死に、デンジは生きた。でも彼は自分自身の欲望のために生きている。死んだ誰かの復讐のために生きているのではない。

 

(引用:チェンソーマン/藤本タツキ 出版/集英社

 

私は子育てをしているが、自分の子供だけでなく、その周囲の子供たちの欲望のなさに危機感を感じている。普通に生きられればいい、多くは望まない。時代だからそれでいいのかとも思ったりもするが、それは結局、与えてくれる社会の支配の域から出られないということになってはいないかとも感じたりするのだ。ステーキ食べたい、寿司食べたい、女の子にもてたい、金持ちになりたい…その欲望はきっと誰かの犠牲の上に成り立つものだけど、それって悪なのか?それとも支配からの解放なのか?そんなことをチェンソーマンを読んで最近考える。

アニメも始まり、拝見しているが、本当に作品の解像度が高いと思っている。この漫画はいわゆるバトルものではない。心の機微や欲望に正面から向き合った展開になっており満足している。アニメを見て、漫画を見て、またアニメを見て…ということをしていたら、夫にそんなはまり方をするなんて意外、と驚かれた。私も別にチェンソーマンを見てスカッともしないし、得るものもないし、辛いだけなんだけれども、ただただこの作品を確認するような見方をしていて大変意外である。私にとってのチェンソーマンの解釈を探しているといってもいい。自分の考えが古いなんて思っていたけど、自分なりの落としどころを探して作品を読むというのも大変に面白い。

この作品を人に勧めようとはまだ思わないけれど、きっとこの作品は読む人の立場によって刺さる場面も違うのだろう。だからこそ、チェンソーマン最高!と脳死で言ってしまうような風潮にはなってほしくはない。きっと誰もが、人生のどこかで、この作品と出会い、感じるものがあってほしいと願う。

♯4 岡崎体育くんの魅力について語る。

ロシア情勢のことを思い、ふと、岡崎体育の「スペツナズ」が聴きたくなった。


www.youtube.com

音楽のことを誰かに語ろうとするとき、やはりどんなに熱く語ろうが、その人がふうん、今度聴いてみるねと答えれば、もう今度聴かないことはわかっているので、結局誰かに音楽を勧めることはなくなった。SNSハッシュタグを漁り、共通の音楽を好きな人たちの感想を読んで、うんうんそうだよねと共感することのほうが楽しい。いい音楽は、その聴く人に響くかどうか、その一点だけなのだ。

それでも、私は定期的に、岡崎体育の魅力について語りたくなる。テレビに出る彼はどちらかというと3枚目寄りで、音楽も笑えるような、コメディ然としたもののほうに注目が集まりがちである。でも「カッコイイ岡崎体育」を見てほしいと語りたくなる。

そもそも、体育くんのファンになったのは、体育くんの声がカッコいいからなのである。私が彼を知ったのは、皆さんと同じくMUSICVIDEOからなのだが、そこからいろいろ掘り下げていった結果、冒頭のスペツナズにたどり着いた。本当の彼はどれなのか?全部本物だろうが、このゆるぎない声が彼の魅力そのものなのではないだろうか。

自分用にカッコイイ体育についてまとめる。


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com

MUSICVIDEOしか知らないやつは聴け!体育の声がどれだけすごいのかを聞いてほしいし、体育はカッコいい曲を8割くらい、面白い曲2割くらいにするべき(切望)誰かに紹介してこれはカッコいい!!と言わせたいのでぜひともお願いします。届くのかどうか。

 

#3 最近のアニメからいつも学んでいる。

昭和生まれの私にとって、”アニメ”という概念は、時代を経て様々に変遷してきたと感じられるもののひとつである。

私が小学生くらいの頃は、夜7時くらいは子供向けのアニメがたくさんやっている時間だった。ドラゴンボールドラえもんサザエさんなんかは日曜と火曜の2回やっていたし、キテレツ大百科なんかもみんな見ていた。しかしいつの間にか、アニメは子供の見るものではなくなり、一部のコアなファン(端的に言えばオタク)のものという認識になって行ってしまったと思う。

しかしまた、近年になって、アニメのクオリティは飛躍的に向上し、また多くの人々が見るものになってきたのではないかと思う。私はどちらかというとアニメは苦手で、漫画のほうが好きなのだが、最近はまた作品によってはアニメを見るようになった。

私の家にはたくさんの漫画があり、好きなものは新品を買って読む。小中学生の息子たちにアニメを見せることもあるけれど、あまり好きではないといわれ、結局息子たちも紙の漫画を読んでいる。

アニメより漫画を好む理由について、夫と話し合ってみたことがある。漫画というのは、自分の思うペースで読めるが、アニメは映像のペースで見せられるというのがあるのではないかという結論に至った。

最近の良作と言われている「鬼滅の刃」は漫画をすでに我が家では読んでいたのだが、その後追いでアニメを見ると、こんな”間”ではないと違和感を感じてしまうことがまれにあったりした。声に違和感を感じるという要素も似たような感じなのかもしれない。

原作付きのアニメを見る時に、やはり自分の思うスピード感があって、それと違ったときに、やっぱりアニメはいいかな、という思いにさせられてしまっていたのかもしれない。

 

そんな私でも、「呪術廻戦」と「チェンソーマン」は原作付きアニメとして違和感なく見られている数少ない作品たちである。奇しくも、この二つはアニメーション会社MAPPAの作品であるという共通点がある。私がこの二つを好んでみる理由は、「動きが原作そのものである」という理由である。

漫画は静止画である。だから、そのキャラクターたちが動いていることは脳内補完しているわけだけれども、その保管部分の動きが、私の脳内とまるで一緒なのだ。それは、制作側の作品に対する解像度がとても高いということなのではないかと考えている。


www.youtube.com


www.youtube.com

これらが顕著に表れているのが作品のオープニングである。オープニングでは原作にない動きや場面も多くあらわれてくるが、そのキャラクターが間違いなくするであろう動きをしているのである。この、繊細で情熱にあふれた制作者の意思が、私の心を揺さぶってくるのだ。

安い製作費でも作品が有名なら見てもらえるとか、どんな作品でも声優が良ければ見てもらえるというような時代は終わった。原作付きのアニメならば、作品を誰よりもリスペクトし、理解をして、その内容をいかに映像で表現するのか、ということに誠意を払えば、多くの人が称賛する、ということに到達するまで、多くの時間を要したのではないかと感じる。

平成の時代、不況でなんでも安く消費する時代から、コロナ禍を経て、令和の時代、本当に良いものを選んでみたい、手に入れたいと思うようになったと思う。よい作品が正当に評価されるということは本当に良いことだ。

ガンダムシリーズも、また気合いが入った作品が作られていることに喜びを感じている。水星の魔女も、宇宙世紀シリーズではないが、丁寧に作品を作ろうという気概を感じるし、映画閃光のハサウェイなども、一ミリの隙のない戦闘シーンなどは圧巻である。


www.youtube.com


www.youtube.com

何はともあれ、中年になってももう一段階上のクオリティの作品たちに巡り合えるのは幸いなことで、もう新しいものなんて…と思った瞬間にこれらに出会えなくなってしまうのはもったいないことだと思っている。

もうすこし、時代の流れを広く受け入れ、どうか凝り固まった老いをしないことを意識したいが、はてさて。

#2 学んでいるのか

自分への甘やかしについて振り返る。

 

私の20代までを振り返ると、ストイックそのものだった。

辛いことや、身の丈に合わないような努力こそ美しいと感じていたと思う。勉強は大好きだし、体育会系の部活動やサークルに所属していたので、理不尽な上下関係も、疑問を持たずに受け入れてきた。それが良かったのかどうかはおいておいて、心身はタフネスだとよく言われる。

 

しかし、時に暴走して、ストレスに押しつぶされてしまうことも多かった。ストレスによる胃潰瘍で入院したこともあったし、全身のしびれを感じて病院に行ったら、仕事のし過ぎと言われたこともあった。でもそれこそも武勇伝と思ってすらいたと思う。

 

それは無理をしていると教えてくれたのが夫だった。

私は20代半ばで今の夫と出会い、そんなに無理して生きることはないということに気が付いた。自分を追い込むことが美徳なんてことはない。要領よく立ち回ること、疲れたら休むこと。今の時代には当たり前のことが、私にはわかっていなかった。結婚したことで互いに甘えて生きて行ってもよいのだと初めて気が付き、私は今までできなかった「甘え」を取り戻すように生きるようになった。

 

結果どうなったか。

私は一人っ子であるので、元来わがままで独善的で、マイペースな人間なのだ。抑圧していた本質が、良くも悪くも噴出してしまった。生きるのは楽になったが、圧倒的に怠惰な生活を送るようになってしまったように思う。

 

仕事にストイックになれば、ほかのことは全くしない。そこのしわ寄せを受けたのは夫や子供だったのかもしれない。仕事で疲れた時は、ほぼ家事を丸投げたりして、簡単に言えば甘え切っていた。

 

私は今また、子供の成長とともに余裕が出てきて、甘えて生きなくてもよくなってくるにつれ、自分自身と向き合う時間が出てきた。30代、丸々子育てに費やしてきた自分が、子育てをしていればすべてが埋まっていた自分が終わり、今度はなにが必要なのか考えると、「学び」ではないかと最近思う。

 

子供たちの考える新しいこと、時代の求める新しいことから逃げてはいけないのではないかと切に思う。甘えるとことで足りなくなってしまったものを、またこの10年をかけて埋めていかなくてはならない焦りを感じている。

 

でも今度は自分を見失わないように。

#1 生きているのか

私は40代半ばのそこら辺にいる中年女性である。東京23区のどこかに住んでいる。

 

若い時はブログを書いたり、ホームページを持ったり、自分自身をアウトプットすることに積極的だった。どこか自分に自信もあった。それなりに読書量もあって、文章力もあるんじゃないかと錯覚していた。

 

しかし、20代後半、結婚、妊娠、出産を経て、自分のための時間が減り、インプットもアウトプットもする余裕がなくなった。自分のための時間、というよりは、自分自身と向き合う時間、が半減したというべきかもしれない。

 

しかし子供たちが育った今、また自分自身と向き合う時間ができたのだが、創作したり、思いを言葉にする能力や意欲が全くなくなっていることに気が付いて絶望した。

 

40代を過ぎて思うことは、世の中の多くの仕組みを知ってしまった(知った気になってしまった)自分自身についてである。新しい映画の宣伝をみても、それは知ってる、昔あったあんな映画と同じ展開だってわかるから見なくてもいい、という気持ちになっている。私の、もう世の中の大体のことは経験してしまった感が、私の歩みを止めてしまっているのだ。

 

しかしこれは、自分自身を守るすべでもあると気がついたりもしている。すべてを完ぺきにこなそう、新しいことに挑戦しよう、という強迫観念から自分を逃がすことによって、おおらかに生きられてもいることも確かなのだ。

 

この二つの矛盾を抱えて生きているこの今を、何かに残せないか。私はこの歳になり、私は私という人生しか生きられないということをようやく受け入れられた。私はまだ何者にでもなれるんだ!という思いはもうない。私は私として生き、そして死ぬ。この単純なことに気が付くまで40年以上かかってしまった。だからこそ、今しか書き記せない、私の生きざまを記録する。私は歳をとった自分と向き合い、そして自分自身が本当に生きているのかを確認しながらこのブログを記していく。

 

私は確かに生きている。そしてまだ私自身の人生は道半ばなのだ。